気候変動枠組み条約第21回締約国会議(COP21)が、11/30から開催されています。

かねてから未来のこどもたちに残されるであろう破壊されつくした地球環境について
心を痛めていた者として、この会議の行方、そこでなされる判断に対して、
極めて重要視し、強い関心を持っていました。

ただ、従来よりは好ましい進展もみられているようではあるものの、
しかしながら、予想通りの先進国と発展途上国の間の駆け引きが続いており、
各国の政治的、経済的な思惑が見え隠れする”醜い”様相を呈しています。

私は、まず”低炭素社会の実現”という言葉自体に、そもそも現代社会との矛盾や
実現不可能性を感じます。
従来の資本主義経済からすれば、総じて経済に関わるものは右肩上がりを目指し、
そうでなくてはならないのが当たり前なものといえます。
それなのに、経済活動に不可欠なエネルギー(炭素)を減らす、すなわち使用量を
減らすということは、これに逆行することになります。

これでは、既得権益を手放せ、儲けを放棄しろということになり、
これからの発展を喫する途上国や企業にとっては、到底受け入れられないのも当然です。

でも、状況はもはやそんな議論のレベルには無いことを、いかに認識できるか、
現状の不公平感を払拭し得るような、強い危機感を持つことができるか、
まさに世界中のリーダー達の真価が問われていると思います。

大きな(自己)犠牲を払ってでも、将来のためにやらなければならないこと、
果たしてそんな英断ができるのか、
そして、当然そのような判断によって大きな影響を受け、実生活でも相当な
犠牲を強いられる覚悟が、我々一般市民にはあるのか、
やはり難しいというべきでしょう。

でも、少しずつ自分の尺度を変えて考えてみればできないことはないと思います。
たとえば自動車は、人によっては生活に欠かすことができないものでしょう。
しかし、必要性から検証してみれば、皆が皆所有し、使用する必要があるとは
いえません。近所の買い物くらい少し歩くとか、自転車で行くとかはできます。

・時間がもったいない → 少し早く出ればいいこと
・足が疲れる → わざわざジムに通ったり運動不足を嘆くくらいなら、よっぽどいい
・いい車に乗る満足感(自己顕示欲) → そんな価値観はもう古い!
・電気、水素電池自動車は値が高い → 車に乗りたいなら払いましょう

上記のようなつまらない自己満足や些細な欲求(楽する)を満たすため?
そのことによって地球や人間に与える悪影響には全く見合いません。
自分だけなら、ちょっとくらい?
むしろ、そういうことの小さな積み重ね、何十万、何百万人分(あるいはもっと)が
今まさに暴風雨や大洪水につながっていることを認識すべきでしょう。

ここは、炭素を減らすとか、無くす、という後ろ向きな発想ではなく、
たとえば、Co2を吸収してくれる森林を大切にし、気持ちの良い環境を増やす、とか

あるいは、炭素エネルギーに変わるクリーンエネルギーへのシフトを
人類の英知と努力と犠牲を結集して実現することで、
新しいスマートで気持ちの良い生活ができるように変えられる
といったプラス思考をすれば、良い方向に進むことができると思います。

私は常々思います。
そう遠くない将来、異常気象で農作物が取れなくなり、食糧難に陥ったときに、
子供たちから、

”お前らが随分と贅沢したせいだ、そんな老人たちに食わせるものはない!”

と糾弾されてしまうことも想像に難くありません。

後世代(子孫)から、

”どうして親や祖父母(先祖)は、こんなボロボロの地球環境を残したのか!”

”自分たちだけがいい思いをして、どうして僕らはその割を食うのか!”

と苛まれないように、今起こせる行動、判断をするべきです。

親が子のために、親が自分を犠牲にすることは当然のことです。
子供たちにとっての大切な環境を犠牲にしてまで、
親が自分の欲望を満たすことは、自然の摂理に対して真逆の愚行でしょう。

そう思いませんか?みなさん。

 

setayonchome